埼玉 道院
五 教 一 堂 (項 先 師 )
道慈研究会資料室を更新しました。2016/8/20 『道心』

はじめての方へ

道院・紅卍字会とは・・・・

 本来、道院と紅卍字会とは別の組織で、道院は主に内修に勉め、紅卍字会は主に外慈を実践する場であります。

 内修とは、静坐(先天の坐法)、経(道院に神界から下賜された特別のお経)、黙過(懺悔)に勉め、主に心を修める修道の場であります。その要旨は善を修め善を悟る事にあります。

 また、外慈とは、世を哀れみ、貧困者や生活困窮者や罹災者などを救う活動をする場であり、現実的・物質的に世の中を救っていく活動であります。

 そして、大正9年2月9日に中国の済南に最初の道院(母院)が設立され、大正11年2月4日に紅卍字会が設立され現在に至っています。現在では香港に本部(宗母総)が存在し、シンガポール、台湾、アメリカ、カナダ、マレーシア、日本など各国に道院の支所が存在し、各国で活動を展開しています。

 「埼玉道院」は、2004年農歴11月15日に設立され、活動を続けています。

埼玉道院について


埼玉道院は平成2年(1990年)2月11日、多摩道院大宮分所として成立しました。かつて、多摩道院では扶乩で「霊光合化」の扁額を賜り (扁額は各道院の天命と役割を示すとされている)笹目秀和老師(統掌)のもと、誦経弭化を発願し毎日、『太乙北極真経』を奉誦していました。その頃、道院のことを学ぶ場として、秀和老師に申し出をして「道慈研究会」を発足しこれを主催しながら古い訓文や文献資料などを学んでいました。

 当時、研究会に参加した会員中で道慈について深い関心と理解を持つ修方が居りその後、同修方より道院の研修研鑽の為、道慈研究会をひらく場所の提供があり、誦経もできるようにと宗母総より 正位(御神位)も拝領し正式に「大宮分所」として許可されました。

 当初は月一度の『太乙北極真経』の誦経と月2回の訓文研究会が行われていましたが、後に活動の中心は『太乙正経午集』(6巻24節360籙/誦経に約10時間を要します)の誦経を主に行っていました。太乙正経午集はこれを誦する前後に疫病を防いだり 事変や紛争をおさえる3つの咒を唱えるなど、世事、世間の大災難を鎮める働きがあるとされています。

2000年5月には『太乙正経午集』の誦経回数も100回を数えました。2004年に東京総院を通じて、香港宗母総より正式に分所から道院昇格の許可を頂き、同年12月26日に埼玉道院として創立いたしました。

    
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 埼玉道院としては、今後、道慈の発展と誦経弭化に勤め努力していきたいと思います。
                     
      埼玉道院 統掌/道慈研究会
主任 森谷 由臧(ゆぞう)


現活動日


毎月第一日曜日常儀礼、道院で奉祀している聖神仙仏の典礼、誦經会、合坐、默過など。
第三火曜日常儀礼、道院で奉祀している聖神仙仏の典礼、誦經会又は道慈研究会、合坐、默過など。いずれも活動時間帯は14時より18時迄
(事情により活動日に変更があることがあります)
尚、老祖様(道院で最も尊ばれている神霊であります)は日本神道で言うところの天之御中主大神であるとも示されています、道院の修方でなくともお詣りはできます。
 

修 道 と は

道というのは天地の間において、人々が公有(共有)する所のものであり、決してある特定の人だけが私有独占すべきものではないのである。道は人においては、貴賎、貧富、智愚の差別がなく、生まれると同時にあって、片時も離れることがでいないところの、すなわち心である。
人には皆心というものがあって、心がすなわち道であり、もし心を能く修めることができれば、それがとりもなさず道を修めることなのである。いわゆる道を修めるとは実は心を修めることなのである。このように説いてくると、心を修めることがすなわち道を修めることであって、別に何も深遠で奥深く不可思議なものではなく、又別に難しいことではないのである。それは時間を消費する必要もなく、
又場所も必要としないので、ましてや、深山幽谷に師匠や道友を訪ね求める必要もさらさらなく、何時でも、何処でも、何事においても、ただ自分から決心をして修めさえすれば、自然にだんだんと道に合するようになるのである。
 この心とは及ち良心であり、又道心でもある。もし何事でも良心にそむくことがなければ、即ち道に合するのである。もし何事においても道に合致すれば、修める必要はないのであり、社会はこのように悪くならず、世界も又このように乱れることはなかったのではないだろうか。
 今日における人心の悪化は言語を以って形容することではない、それを放任して社会の安定と世界の平和を願っても、それは不可能であるばかりではなく、逆に進めば進む程、安定や平和から遠ざかってゆくのである。
 そこに必ず道を修めなければならないゆえんの重要な鍵は、すべてがこの人心にある。古人には心を治めるところの学問があり、それが世間の道徳を維持するところの不二の法門であったと言うことができる。
 いまの人は道徳を破壊し、廉恥の心を失い、ただ私あるを知って、公があることを知らないのである。それは皆心を修めることを忘れているのであって、私恣のために幾重にも包囲されて、益々堕落の一途をたどっていくのである。万法(有形無形にわたる客観的存在)は皆心によって造り出され、万善(多くの善)は皆心によって生じ、万悪(多くの悪)は皆心によって造られる。したがって、聖賢と盗跖(大盗賊)の違い、肖と不肖の別れは、すべてが心を修めると修めないとにかかっているのである。
 心を修めることは、別に何も難しいことではないが、今日の人類虚構に溺れて、財貨、利益、名誉、地位などのために心を奪われ、自分自身のことばかりを考え、人のことなど眼中にないのである。そこで、にわかに心を修めるとは言っても、一体どこから手を着けたらよいのかわからない状態である。
 この修めるという字はすなわち日常の人として守るべき道や、人に応待し物に接する間に在って、片時も離れることはできないので、決して高尚な理論をもてあそんで、身近な事実を顧みないとうことではない。